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五井野正博士の世界

『雨中の大橋』の中の日本文字の解読H

ゴッホは娼婦と7月13日に結婚していた!!

14本の向日葵と美術評論家の悩み

 「特に巨大な向日葵の花束の大きな絵を少なくても六枚、日本風にこの非常に小さな部屋にかけたいと思う…。
(中略)僕のほうはここに浮世絵をおいておく必要はない。?ここにいるのは日本にいるようなもの?だと常々自分に言い聞かせているのだから。いいかえると、これは絵になると思えば、ただ眼を開いて、眼前にあるものを描けば良いのだから…。
(中略)浮世絵を見る習慣がつくと、花束を飾ったり、さらに花の作品を作ったりすることがわかるだろう」(末妹ウィミレーン W7アルル1888年9月8日頃) ゴッホの書簡から、ゴッホが『向日葵』を描く時、常に日本を意識していたことや浮世絵から影響を受けていたことが理解される。
 その『向日葵』の中でもゴッホの14本の向日葵の絵は、その本当の意味が理解されずともゴッホの作品の中で最も有名で世界中の人々に愛されてきた。
 ゴッホの研究家は1ダースの花とつぼみの向日葵を12本と読み違えてキリストの12使徒に当てはめている。
 さらに向日葵の14本の意味を、ゴッホはキリストの12使徒とキリスト役のゴーガン、そしてテオを合わせた14人に例えて描いたという考えを定説にまで押し通している。
 これでは12使徒もダースで数えられて、威厳もなくなる。
 もちろんゴッホの書簡には、その一つさえも証明するような言葉も暗示の表現もない。
 それでいて、そのようなゴッホの研究者達は12本の向日葵と呼んでいながら、花の数を数えて12輪なのか13輪なのかと自問しているほど単純なのだ。
 14本の向日葵も同じく花の数を数えて15輪数えられると、どうしてなのかと悩んでいる。
 そして色々説を出した挙句、矛盾するとゴッホの日本文字と同じように責任をゴッホの気まぐれに押し付けて、虚像のゴッホ像を作り上げてしまうのである。
 まるで美術の批評には科学的な証明など必要がないかの様な主観論になって、ゆえに、それを押し通すのに権威主義となる。
 当人も良く分らないとなれば、論理が独断的となって更に難解な文章となる。
 結果的に美術評論はかえって一般庶民を芸術から遠ざけてしまうのだが、庶民は実はそんな美術評論などおかまいなく絵画を楽しんでいる。
 誰もゴッホの向日葵の14本の意味などわからなくても感動しているのだ。
 ゆえに研究家にとって悩ませる14本の向日葵だが、それでも世界の人々に最も親しみ愛されているのは何故なのか?
 それは14本の向日葵の絵が美術評論家によって高く評価されたからではなく、ゴッホを知らない人でもゴッホが好きでない人でも、14本の向日葵を見たときに感じる、つまりゴッホの強い想いがこの絵の中に隠されているのを人々が感性で感じるからであろう。
 ゆえに絵画を鑑賞する時、本や写真からでは知識や思考をもっぱらとする左脳で判断するだけで、右脳に働きかけて感性を掘り起こすというところまでは不可能だから、直接に原画を見る事をお勧めする。
 そうすれば、贋作や評論家の解説などに惑わされず、自分の感性で好きか嫌いか、良いか悪いかが分るはずである。
 本来、芸術は感性の領域であって、それは右脳で理解する世界とも言え、左脳で分析する批評の領域ではないはずである。
 批評を専らとすれば当然感性は失われてゆき、ゆえに彼らの知識の尺度にない新しい芸術絵画の出現や動きに対し、つい批判的になってしまうだろう。
 つまり彼らは批評する立場の権威のみ考え、芸術の感性を磨かないから、愚かにも時々にして「向日葵」等のゴッホの贋作の絵を言葉並べて褒め称えながら、ゴッホの考え方や行動にまるで神の眼を持ったかのように分析し、判断を下して批評をするのである。
 ゆえに、彼らに優れた芸術心の眼を持ち合わせていない限りは、絵描きとしてのゴッホを批評出来ても、細微に神経を尖らせている芸術家としてのゴッホを本当に理解できないと思えてならない。
 ゆえに今日美術界は混乱してゴッホの人生や絵画について全く誤った妄想、批評でゴッホ観を作ってきてしまったとも言える。


13本と14本の向日葵の間に飾られた『ゆりかご』の謎

 例えばゴッホが弟テオに2枚(13本と14本のひまわり)の向日葵の絵の間に何故『ゆりかごを揺する女』を飾ると良いと言ったかの意図をゴッホの評論家にうまく説明出来るのだろうか。
 向日葵の数を12使徒に解釈をした場合、モデルのルーラン夫人をゴッホがマリアの様に神聖視したと説明せざる得なくなってしまう。
 現に、それに近い主張をしている研究家もいる。もちろん、ゴッホの書簡にはそれを暗示するような言葉は一言も記述されていない。
 ゴッホはこの『ゆりかごを揺する女』について、1889年1月19日にアミ・コーニングに出した手紙の中に
「Je l'ai baptise 《La Berceuse》 …」
〈私はこの絵の主題を『ゆりかご』とつけた〉
と述べ、さらにオランダ語なら簡単に「子守り歌」と呼ぶと記述している。
 ゆえに『ゆりかご』ではなく一般的に『ゆりかごを揺する女』と一般に表記されているのはゴッホの書簡での表記からして誤訳とも言えてしまう。
 例えば、『ゆりかご』(以下『ゆりかごを揺する女』とは呼称しない)の絵について1889年1月28日テオへの手紙の中で、
「子供でもあり殉教者でもある船乗り達が(あらゆる危険にさらされている)氷島にいる漁船の船室で見れる絵、それはゆりかごに揺られて自分達の子守り歌を思い出させてくれる様な絵を描いてみたい。そういう気持ちがふと起きたのだ。僕はゴーガンへの手紙の中でそうさっき書いたばかりだ」
と、ゴッホが『ゆりかご』を描いた動機を説明しているが、船の大揺れをゆりかごの揺れに似せて、船乗りの気持ちを安らかにさせる為に子守り歌が聞こえてくる様な絵を描いたというのがゴッホの想いであった。
 ところが、もしこの絵の題名が『ゆりかごを揺する女』ならば、ゆりかごに例えられている船を揺らしているのは、絵に描かれた女性となってしまう。
 それでは船の大揺れに苦しむ船乗り達にとっては船を揺らす女性は、マリアどころか魔女と思ってしまうだろう。
 つまりゆりかごを揺するルーラン夫人が、この絵の主題ではないのだ。
 実際にゴッホは、この絵の主題がルーラン夫人である事や、どこにもルーラン夫人をマリアとして述べてはいない。
 ゴッホは『ゆりかご』を描くためのモデルとしてルーラン夫人が適役だったに過ぎなかっただけのことである。
「ああ、もし『ゆりかご』のためにポーズしてくれたような女が時々見つかるならば、僕はもっと全く違った仕事をしているだろう」(書簡595 サン・レミ 1889年6月19日)
 ここで、ゴッホはルーラン夫人の様なモデルが時々いたならば、サン・レミでももっと別な絵を描いているだろうと強調している。
 一体ルーラン夫人のどこにゴッホは魅了されているのだろうか。
「僕は「ゆりかご」のためにポーズしてくれたモデル、君につい最近送ったゴーガンが描いた肖像画のデッサンのモデルは今でも記憶で自由に描けるから必ず大きいサイズで描いてみるつもりだ。何しろ、あの人物は僕の夢想する性格にぴったりあうからだ」(書簡632 サン・レミ 1890年3月)
 ゴッホにとってルーラン夫人は想像で夢見る人と性格がぴったり一致するというのである。
 つまりゴッホが夢想する女性こそ、この『ゆりかご』の主題の女性であり、その女性こそがゴッホの13本の向日葵と14本の向日葵の間に置かれる人物なのである。


想像で描いた緑のコルセットを着た女性

ゴッホ作「小説を読む女」 そこで、ゴッホは同じくサン・レミからベルナールに手紙を出しているが、その1889年12月初め頃の手紙の中で、
「ゴーガンがアルルにいた頃に、僕は君も知っているように『ゆりかご』や黄色い書斎の中で黒を扱った『小説を読む女』(Liseuse de romans)(図4)の様に1?2度は抽象的な絵を描いた。抽象画は魅力的な道にみえた。しかし、それは魔力に満ちていた世界だったよ。すぐに壁に突き当たってしまうのだ」(ベルナール宛)
と記述している事に注目してみる。
 壁とは『ゆりかご』を描いている際中に起きたゴッホの耳斬り事件を指す。
「『ゆりかご』を描いているが、この絵は病気で中断していた時に描いていたものだ」(書簡574 1889年1月28日)
この場合、病気とは耳斬り事件も含めてゴッホが病院に入っていたことを意味する。
 ゴッホは『ゆりかご』が抽象画だったと説明している。
抽象画とは広辞苑で、対象の写実的再現ではなく、事物の本質や心象を点・線・色などで表現する絵画と説明されている。
 つまりルーラン夫人を写実化したのではなく、ゴッホの心象をモデルを通して色と線で表現していたのである。
 そこで抽象画で描いたもう一枚の絵、『小説を読む女』についてゴッホは描いていた当時テオに、
「僕は二点の絵画を制作中である。一つはキャベツや糸杉、ダリア、そして人物のいるエッテンの私の庭の想い出(un souvenir de notre jardin a Etten)、そして緑の服を着た女がフランス流の読み方で書斎にいる『小説を読む女』で、ゴーガンに励まされて想像で描いているが、確かに想像力で描くと絵がさらに神秘的になっていく」(書簡562 アルル 11月下旬)
と想像で描いたと説明していることから、『ゆりかご』も同じようにして想像が加えられて描いたことになる。
そして、『小説を読む女』についてゴッホは末妹ウィミレーンにさらに詳しく説明していた。
「緑のコルセット(corsage=ブラウス)に袖は深いぶどう色、スカートは黒く、背景は真黄色で本が並んだ本棚がある。彼女は黄色い本を手にしている」(末妹ウィミレーン宛W9 アルル11月中旬)
 この『小説を読む女』の描写は黄色い本がポイントであるが、主題である女性はもう一つの抽象画である『ゆりかご』の女性の描写と実によく似ている点に気づく。
「これは(『ゆりかご』)緑色の服を着た女だ。オリーブ緑のコルセットをつけ、薄いヴぇロネーズ緑のスカートをはいている」(コーニング兄宛 571a)
 ゴッホはベルナール宛の手紙の中で『ゆりかご』と『小説を読む女』は抽象画だと述べていたが、どちらも緑のコルセットという線と点で共通した一人の女性を想像して描いているのだ。
 つまりゴッホにとって、緑のコルセット(corsage=ブラウス)を着ている女性こそが、ゴッホの夢想する抽象的人物だったのである。
 その緑のコルセットの女性とは一体誰の抽象化なのだろうか!?


              
五井野 正 (ごいの ただし) 科学者・芸術家
ウィッピー総合研究所 所長 / ロシア国立芸術アカデミー名誉正会員
スペイン王立薬学アカデミー会員 / アルメニア国立科学アカデミー会員
フランス芸術文化勲章受章
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